2007年秋、大糸線。国鉄一般色のキハ52-115と糸魚川駅
2007年秋。氷雨降る晩秋の糸魚川駅で、老兵キハ52をひたすら撮った。引退の3年前の秋である。国鉄一般色のキハ52−115は、北陸のしっとりとした雨に濡れ、どこまでも美しく、輝いていた。
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2007年秋、大糸線。国鉄首都圏色のキハ52-156と糸魚川駅
国鉄一般色のキハ52-115
国鉄一般色のキハ52−115は、私が訪れた日はお休みのようで、留置線でヒルネしていた。
1エンド側を寄りで撮影。キハ52は言わずもがな。潮風で錆びたトラスの架線柱は昭和40(1965)年の電化時からの代物だろうか。手書きの「触車注意」の看板に、真っ赤な軽油ホース。まるで鉄道模型のシーナリーのような、昭和40年代そのままの風景が残っていた。
キハ52−115の1エンド側をサイドから。「金ホク」は金沢支社北陸地域鉄道部の所属表記。大糸線に所属していた3両のキハ52のなかで、最古参のキハ52−115だけが客室扉の形状が異なる。ステップ部に明かり取り窓があり、鋼板もプレス加工されていて、キハ20からの系譜を引き継いでいる。良くも悪くもバスっぽさが郷愁を醸し出す。
ちなみに、1エンドの運転席下にある梯子状のガードは何だろうか(2エンド側にはない)。知っている方がいらっしゃったら教えてください。
キハ52−115の車両中央部。車名表記を挟んで2つの燃料給油口が見える。床下にはDMH-17Hが見える。集中型の冷房装置は後付けだが、あまり主張せず原型のイメージを壊していない。
背後に映る糸魚川の町並みも、無粋なマンションなどはなく、美しい瓦葺きの家々が立ち並ぶ。キハ52は、このしっとりとした日本海沿いの街に似合っていた。
まだまだ北陸本線が特急街道だったころ。
まだ北陸本線に所属していたころの、特急街道だったころの、糸魚川駅の看板も少し紹介したい。
比較的最近作られたもののようだが、のりかえ看板には直江津、新潟、青森、東京、富山、金沢、大阪の文字が。日本海縦貫線の誇りに満ちた看板である。この頃は上野行きの「北陸」も、大阪行きの「日本海」も残っていたので、看板に偽りはなかった。この看板、今も残っているのだろうか?
国鉄書体でなく恐縮だが、北陸本線の時刻表を。さすがに函館行きは無くなった後だが、日本海もまだまだ2往復残っていた。「きたぐに」「日本海」「北陸」「能登」。4時半からの11分間に3本が到着。夜行列車銀座だった。
ホームの乗車口案内。この数年で鬼籍に入ってしまった列車ばかりだ。大阪ー新潟間の「ふるさと雷鳥」も、2009年までは多客時に運転されていた。
ちなみに、駅を降りて散策してみると、糸魚川は駅前の市街地もしっとりして情緒のある街だった。急行列車でフラリと降りて、駅前旅館に荷物を置いて、街に繰り出してハシゴ酒したら楽しいだろうな。
駅の周りをぐるり回って、ようやく線路際に戻ってきた。赤レンガ車庫を正面から。
赤レンガ車庫も、転車台も新幹線工事でなくなってしまった。せっかくいろんなものをぶち壊して新幹線の駅つくったんだから、糸魚川の飲み屋街、少しはお客さん増えてるといいなあ。
ふたたび糸魚川駅に戻ってくると、夕方の平岩行き区間列車がすでに4番線に入線していた。赤レンガ車庫の向こうに、山の稜線が幾重にも浮かび上がる。方角的には、青海黒姫山だろうか。雨も止んだようだ。
キハ52−156のサイドビュー。やはり表情という点では、さきほどのキハ52−115のほうが優っているように思える。
私はこの後、各駅停車で北陸本線を上って金沢入りし、翌朝の「雷鳥」で大阪へと向かったのだが、その乗車記はまたいつか、機会があれば紹介することにしようか。
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